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病院生活

【百人一首34番目】藤原輿風(ふじわらのおきかぜ)作

『誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに』

解釈)誰をまあ~私を知るというのか。よく知る高砂の松ですら私を知っているとは思えない。本当に他に私を知ってくれてるのだろうか。?
「古今集」この作品は「春夏秋冬」、「旅」、「恋」のどれにも雑さないものとしてあげられている。
31音にするため、かなり言葉を省略しなければ難しいテーマ。
『ふと気がついたときには、心を理解しあう友もなく、自分ひとり取り残されたという老後の孤独を嘆く歌だ』と先生は教えて下さいました。
『言い尽せない言葉をはぶきまとめたもの。言葉の使い方の見事さを感じるのは詩や和歌の魅力です。』と語って下さいました。
ふと、人は臨終の時にはじめて、その人のすばらしさを実感するのだと思いました。(^o^)/~~

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テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

【伊豆高原】

1989年3月30日 

 今は結構おとなしくなりましたが.今から20年余り前の私はチャレンジャ-でした。このままで良いのかといった思いが行動を起こさせていました。今みたいにいつでも気軽に連絡が出来る携帯が無かったころ、病院の公衆電話で外との友達と連絡を取り合う方法が私と外を繋ぐ手段だった。

 このころ.病院の外の生活に感心が向き.自分がどうしたら病院から離れた場所で生活できるか.思いを巡らしていた。そんな時.勉強と作品作りという事で.病院から一時退院を繰り返しつつ絵の学校に通い.外での気ままな生活を味わってしまった。さあ大変。これが寝た子を起こす事になり.病院の決まりに束縛された窮屈な生活にイライラがどんどん募っていったんですヨ。

 当時、私のベットの近くには.ピカソの「貧しき食事」の作品コピーが貼ってあって。この作品が静岡県伊豆高原にあるのは知っていた。外に出たい.自由に過ごしたいといった思いが.とんでもない企画へと発展して行こうとは.この時は知るよしもなかった。

 ピカソの作品に後押しされ導かれるように、伊豆高原の20世紀美術館に行きたいという気持ちがどんどん大きくなったので.御殿場に住む本田さんに話をして見た。すると本田さんは『そんなに来たいんなら一人で来たら』なんて言うんですヨ。人の手を借りないと移動も出来ない私に対して。

 『そんなに来たいんなら一人で来れば』のその言葉は、元来負けず嫌いな性格の私のスイッチを入れるには、十分な言葉でした。春休みもあってかみんな帰省していて、ボランティアの手もなかったのですが、自由な外への憧れと病院へのイライラが.思い切って一人旅にチャレンジしてみようと決心させたのです。

『さあ.一人旅するぞ。』と決心してたものの.いざ準備を始めると.『もし万が一電車事故にあったら、その所在をどう知らせるか。責任問題は<#!?>。体調不良になったら。トイレはどうする。電車の乗り換え等々と。』考え出すときりがなく心配は尽きない。やっぱり一人旅は無理かなって弱気になったりもしました。しかし.そんな時にこそ『そんなに…一人で』の言葉が.脳裏をかすめ、色々な知恵を考え出すんですヨ。
今思えば若気の至りで、ずいぶん思い切った行動をとってしまったと思います。この話は今となっては冒険ですが。現在呼吸器を使っている身として、自由どころか身動きが取れない。自分の思いで行動できていた、あの頃が私にとって貴重な体験でもあり、私自身何もかもが無我夢中で生きていたのだと思う。

前フリが長くなりましたが。
では.私の冒険談を聞いて下さい。
 私は外泊許可を病院からもらい、千葉に住むボラさんの協力を得て病院を出た。駅の階段は駅員に車イスを担いでもらいながら、これから実行する私のささやかなチャレンジを.ドキドキする気持ちとさあ.始まったぞと言う期待と不安を感じながら駅の階段を一段一段のぼっていった。
 彼女とはまるで友達同士のように、千葉駅で別れた。別れた後、そのまま東京までの快速に乗っていくつもりが『待てよ』と。
オイオイ何か違うぞ.気づくとこれはホームが違う。既に彼女と別れた後なので、トラブルは自分で立ち向かわないとと奮起。『まだ四街道をでて30分だよ。』って思ったのは今だから言える事で.あの場では『なんとかしないと』っといった気持ちでいっぱいでした。私はとっさに知らないお客さんにやるせない思いで頼み、反対側のホームの電車に大急ぎで乗せてもらい、事なき事を経ました。何をどうしたかなど説明も不充分だったと思います。まさにこの先、何が起こるやら珍道中の始まりです。(笑)



 電車は千葉駅からゆっくり東京へと走り出した。そのまま東京駅まで私は一人。船橋、小岩、次々と人が混み合い乗ってきては、各駅にお客さんは散っていった。ただぼんやりと人の行き交う人の波を見ていた。私の車イスの周りにも人が立ちこむ。そんな中馬喰町まで来たとき『東京で乗り替えて横浜でデートしようか』と、どこからともなくカップルの話が耳に入ってきた。その頃、私を東京駅で降ろしてもらうため、誰かにお願いしようかと迷っていた。
 私はつかさず彼に『東京で降りられますか』『もし降りるのであれば、ホームに移るとき、車イスを押してもらえますか』と頼んでみた。彼は彼女と目を合わせ、彼女の手前、断りきれなかったのか『いいですよ。』と言ってくれた。そこからが私の車イス講習が始まった。段を降りるときは後ろ向きで、後輪をうまく転がし、もち手をしっかり持ち転がしながら降ろす。。前輪はゆっくりとなど。初めてとはいえ、お互いドキドキしていたと思う。二人と別れてからデート中、車イスの話をしたり、また違った彼の良さを知ることになったらいいな~と内心思ったりもした。千葉駅でなりふり構わずお願いする技はここでも冴え渡った。


 
 東京駅に電車がホームに滑り込むと、既に駅員が待っていて出迎えてくれていた。『お客さん一人かい』『付き添い者は』など聞かれ、『向こうで待ち合わせ』と答えると『そう』と。私の車イスを押し始めた。総武線東京駅は丸の内側の地下なので.職員専用の扉とか.職員専用の通路を使い.エレベーターで移動。扉が開くと正面がレンガの東京駅。ちょとビックリ。長い道のりを経て下田行きの踊り号のホームまで連れて行ってくれた。当時、車イスの乗客はホームからホームに移動する際、丸の内の玄関まで一旦地上に出て、東京ステーションの改札を通り、一般客と違う通路があり、薄暗い赤レンガの洞窟に移動用のエレベータがあった。
下田行きのホームへはこうして地下道を通って私たちは移動していた。私はここで伊豆高原の電車に乗せてもらう前に、本田さん宅に電話をかけて頂いた。自宅で待っている本田さんの奥さんを中継し、現在地を知らせるためだった。その報告で本田さんが電車がどこで停車しトラブっても、助けにいけるように少しずつ移動しながら待機していてくれたのだ。事前に伊豆高原までの綿密な下見もしてくれていて、それをたった一人でこなしてくれていた。もう後戻りできない所まで来たなーと。あのピカソの絵見たさとこの計画を成功させたいという、わくわくする思いがより大きくなっているのをこの時強く感じた。
 見慣れた東京の街を通り過ぎ、段々遠くへ来てしまったと思った。その日は春の香りのする暖かな日だった。友人宅へ荷物を送っていたので、小さなカバンを一つ持って薄い黄色のセーターにジーンズの上着、伊勢丹柄のチェックのひざ掛けをかけていた。 車中、お弁当やサンドウィッチを売る売り子がいて私は、『桜が見える窓はどちらですか』と青年に聞いてみた。車イスを移動してもらうためにサンドウィッチを買い『済みませんが財布からお金を出してください』と言った。青年は私が何一つ出来ないで一人旅をしているのが不思議だったのか、それとも車イスに興味があたのだろうか。彼は首をかしげながら私に言われるままに、車イスのブレーキをはずして、桜の見える位置に移動させてくれた。私は十分すぎるほど旅を楽しんでいた。一人で幾つもの難関を乗り越え、半分まできたころ。今度の難関は伊豆高原のホームに降りることだった。停車している時間は短い。素早くこなさないと大変な事になる。
丁度、車掌さんに伊豆高原行きの切符を切っているお客さんがいたので、私はその女性の方に声を掛けてみた。『私は今回一人でこの旅をしている。その記念すべき時だと言うことを興奮しながら」も女性に話した。彼女は麻布にエステの店を開いている人で、伊豆にもその用で来たとか。彼女が快くホームへの移動を手伝ってくれたのでホッとひと安心した。帰り際に『幸運を祈る』と言ってくれて、別れた後も手紙のやり取りをし、旅の無事を知らせた。

 さて.伊豆高原駅に列車は到着。伊豆高原駅の駅員が出迎えてくれていた。列車で知り合った女性からホームに立つ駅員に私は引き継がれた。
 そこにパンチパーマに黒のサングラスをかけた男がやってきて、車椅子を奪おうとするもんだから、駅員が私とその男の間を割って入って守ろうとしてくれた。そして駅員は『何ですか』と言葉を強めた。『おう』と私に声を掛けると駅員は待ち合わせの人なのかと?不審そうな顔をし、本当にこの男に引き渡しても良いものかと、ずっと私たちが車に乗るまで振り向きながら見ていた。本田さんはなんで見てんだと首をかしげていると、私が一言。『その洋装だからヤクザか何かと間違えたんじゃないの』と言ったら、運転しながら大笑いしていた。彼の髪は天然パーマで短く切れられていて、浅黒い肌に、きわめつけは運転のときにかけるグラサンをそのままかけていたことだ。彼をどう見るかは自由。か弱い車イスの女性?とグラサンの男。どう見てもマッチせず、おかしすぎる。(笑)


 ここまで本当に気持ち的に長旅だった。本田さんも同時に移動を続け、伊豆高原の駅になんと10分前に到着した。アクシデントがなかったわけではないが、無事にここまで来れた事が本当に奇跡に近かった。
私は本田さんに会うやホッとしたのか。ここで緊急事態発生!感傷に浸る間もなく今までの電車の緊張からか、急にトイレに行きたくてならなかった。あのピカソの絵のある20世紀美術館に到着するまで我慢し、大急ぎでトイレに連れて行ってもらった。本田さんは男なので.女子トイレまで移動したら『あとは誰でも巻き込んで解決しろ』って。本田さんが呼んできた館内の女性職員の手を借りてほ~っと一息。助かったー。
 私は気持ちを新たに『とうとう美術館に来ることが出来たー。』私は胸がいっぱいだった。この美術館内の展示品は20世紀を代表するピカソ、マチス、シヤガールにセザンヌ。エゴンシ-レ等々といった近代美術の作品が収蔵されている。


  「貧しき食事」はピカソの青の時代のもので、痩せこけた男女。男の頭には黒の帽子が被られ白のテーブルに肘をつき、どこか遠くを見つめている。テーブルにはワインの丸ビンと白いコップが並べられている。エッチング技法でB4ぐらいの小品だったと記憶している。青の時代は、特に人間の生と死を考えずには観ることができない。人間である以上、人は生まれ、老いては病いから逃れられず、死と向き合う。人間が通らなければならない根本的なテーマをピカソは問らえていた。どれくらいいただろうか。時間が止まったかのようにゆっくりとした時が流れた。

 トイレで世話になった女性職員がせっかく遠くから来られたのだから、『貯蔵している作品を見て行きますか』と特別に保管されている部屋に案内してくれた。
ここにはなかなか見られない名品が沢山あって、私は夢のようだった。このまま美術館で寝泊りがしたいと思うほどだった。
多くの人を巻き込みながら、私はここでの鑑賞に大満足だった。丁寧にお礼を言い興奮が冷め遣らぬまま、美術館を後にした。伊豆高原から伊豆半島を一気に北上です。


 さあ、本田さんの奥さんのいる御殿場へと車を走らせた。車中珍しいわさび最中を食べさてもらったり、久しぶりの再会に話が盛り上がった。そうこうしていると本田さん宅に着き奥さんと一歳になる長男が出迎えてくれた。奥さんが手料理を披露してくれてたくさんのシュウマイが出された事を記憶している。その日あったことを休む間もなく話していたように思う。奥さんにトイレをお願いし本田宅を後にした。友人の住む沼津方面を走って行くと丁度乙女峠を通った頃、夕暮れがかった富士山を見せてくれた。それも時間に間に合うよう演出してくれたのだ。それは日本画のように美しく、富士山より少し左下あたりに夕陽が赤々と照らされていた。あまりに美しかったから、もっていたカメラで収めたものの、私の普通のカメラではこの美しさをとらえることは難しかった。でもその風景は今でも、私の心の中にこの思い出と共に焼きついている。御殿場は富士のすそに位置していた。『私はどこに富士山は見えるのか』と聞いたら、『ここが富士だよ。』あまりの大きさに見えなかったのだ。すすきの穂が風に吹かれ5合目付近まで走ってくれた。
ぐるぐると案内しながら本田さんは友達との待ち合わせの三島まで、車を走らせ途中吉井家の赤い器に入ったうな重を持たせてくれた。私は本田さんの気持ちが嬉しくて、友人の待つホテルでお腹一杯ながらもおいしく頂いた。ホテルではSの似顔絵を描くため制作した。そこへ富士のすそ野に住むボラさんに、宿泊と四街道までの同行をお願いしていたので、一緒に帰って来てもらった。都心での交通機関は不便を感じることはなかったが、地方に行くとホームに行くにも、駅の階段をどうするのかと困り果てていた。そこの駅は人一人いない駅だった。しばらく待っているとようやく2~3人の乗客が来たので、一緒に担いでもらえるよう頼んだ。急ぎ早に定時に入って来た電車に乗り込むらしく、手伝ってくれた人にお礼の言葉も間々ならないまま去ってしまった。そうこうしているとまた人が居なくなり、仕方なく車掌さんが手伝ってくれて、東京行きの電車に乗せてくれた。地方は本当に大変だと思った。


 彼女と静岡から四街道までの区間、車中爆睡していたのだろうか。記憶が定かではないが、何より何事もなく思いが達成され、一人で旅をする困難さやわくわくする思いを味わうことが出来た。私は病院から離れ、ボラさんにも束縛される事なく旅を十二分に楽しめた。どこに行っても、私の背後には病院という看板を背負っているのと同じで、事故を起こせば病院の患者さん達に迷惑がかかる。みんなのことを思えばこそ軽はずみな行動はできないと思った。これがまた在宅で暮らす障害者であったなら今回のような私が試みたチャレンジなどあたり前に許されただろうしまた、思いも違ってこよう。


 一障害者が試みたささやかな旅の味わいを全て本田さんご夫妻は受けとめてくれた。そして行きに病院から出させてくれた彼女、二人のカップル。各駅の駅員、美術館の職員。静岡の友人、エステの女性。何より帰り一緒に帰って来てくれた彼女。たくさんの人達の出逢いと思いに支えられ、私は達成感といい尽くせないほどの様々な思いでいっぱいだった。まだバリアフリー化していなかったこの頃、いかに一人で旅をする困難さ。また何をするにも事あることに、責任問題がどうだとか言われなかったこの時代に。
 旅の醍醐味を雄大な富士のすそ野に立って感じ、自分とは何なのかを思った。生まれ持った障害から逃れることは出来ない。私はこの旅に、心臓の鼓動をならしながら、車イスを転がしてきたのだ。どこまでもハングリーな精神を私は忘れないようにしたかった。無駄な感情を捨て、私はストレートに何を感じて思うのか。自分を見つめて行きたいと思った。


  病院に帰って来て、車イスのタイヤのきしむ長い廊下。ここにはハングリーな感情があふれていると思った。生きたいという欲求。もっと生きたいんだと。注入に繋がれている者は食べたいと思い。変形した体が痛いと叫び。思うように動かない体。夢半ばの悔しい思い。仲間の死の悲しみ。人間の素の姿がここにはあると感じた。その思いを私は絵に描きたいとこの時思っていた。みんなありがとう。(^o^)/~~

テーマ : 絵画
ジャンル : 学問・文化・芸術

丸木美術館(東松山市)

10月7日(水)、この日は ずっと行きたかった丸木美術館(東松山市)に行けることとなった。
かつて、24歳の時。病棟の同級生と24歳のボランティアさん達が集まって広島に旅行した。原爆ドームを見て、原爆資料館も見学した。本当は式典にも参列したいと思っての計画だったが、安全を考え、式典を取り止めての旅行となった。
フラッシュバックするようにその頃のことがよみがえってきた。
何故今、『原爆図がみたい 』のか。偶然ではない何かに導かれるように、次々と実現の運びとなった。
この日を迎える前に井伏鱒二の『黒い雨』を拝聴した。(点字図書館朗読テープ)
言葉では語りきれない情景。私の中で、創造が膨らんだ。

塩さんと和くんはこの日の為に下見までしてくれてて、塩さんの低い声が、私を館内に誘導し説明してくれた。
丘高い所にあったその建物は水色で、青い空に白い鳩の焼き物が壁にはめ込まれていた。右手奥には集会場。手前には原爆菩薩堂。どこかの中学生が折ったであろう千羽鶴。
無縁仏のような、素朴な石仏が祀ってあった。
夫婦でゆっくりと腰をおろし、夕陽を見ながら目の前の下を流れる川に目をやり、赤トンボが飛んでいく山間を幾度と見ていたに違いない。何とも心落ち着く場所だった。
その日もどこからか蝶々が飛んできた。秋晴れの、ほんのひとコマだった。

丸木位里丸木俊夫妻は、もうこの世にはいない。
原爆図を守っている事務長さんが出迎えてくれた。
手前の部屋には丸木スマさんお母さまの晩年に描かれた作品があった。遊びながら描いたというなんとも微笑ましい動物達の絵が飾られていて、とても色彩が豊かでお母様の優しさが溢れている絵だった。
次の部屋に、夫の丸木位里さんの水墨で描かれている屏風絵があり、牛がお好きなようで、何点も描かれてあった。
そして一番奥には2人の合作とも思われる『アウシュビッツ』『水俣病』『南京虐殺』など。奥さんが人物を描き、その上から夫の位里さんが墨を流し込み、全体の情感を表現している。

所々に血の赤なのか、それとも炎の赤か。その赤が画面の調和を一層殺戮の残虐さをあらわしていた。
このような手法で2人の大作、後世に残すべき『原爆図』が完成された。
丸木位里さんが広島県出身で、原爆が投下されて一週間後に広島に入った。その現場を目の当たりにし、1ヶ月後、妻の俊さんも広島に行く。
その時既に、位里さんは被爆していた。
命の炎が無くなるその日まで、あってはならない『戦争』か2人の絵のテーマとなった。
私は、その絵を生で見たいと思っていた。

でも今回、その絵をみることが出来なかった。
その絵は2階に展示されていて、その2階に続く「階段」を、私は下から見上げていた。この階段の向こうには、原爆で逃げ惑う人々の姿をとらえた絵がある。
1階に、西陣織りで寄贈された原爆図らしい織り絵があったが、そこにはきのこ雲と原爆ドーム、人間の逃げ惑う姿が描かれていた。
塩さんから、位里さんの絵には具体的な、きのこ雲もドームもない。と聞かされ、私は益々、丸木夫妻の絵のとらえ方の素晴らしさを実感した。

『人間』を描きたい。
広島とか、水俣だからでもない。
『人間の苦悩』『戦争の残酷さ』
それを表現したかったのではないかと。
いつか、この目で見られるその日まで、私は頑張りたい。
もっと、日本人として、どうあるべきかを心の奥に留めておきたいと思った。
以前より出かけることが困難になったけれど
車に揺られ、私は
千代ちゃん、ナミちゃん、和くん、皆が居てくれる安心からか車にゆられながら眠り込んでしました。本当にありがとう
もう二人。高坂Pで浅さん夫妻と合流し、6年振りの再会を果たした。
いつまでも変わらないエミちゃんだった
ご主人も写真を撮る時『はいチーズ』が『はいいってらっしゃい』と、なかなかユーモアの人物だった。

エミちゃんが車中で、『私の施設の利用者さんに90近いおはあさんがいて、その方は被爆者なの。』
『川を見るたび、絶対川の水は飲めない。毒だと思っていると』言っていた。その話を聞きながら、私はふと、あの美術館の前を流れる川は、広島の川に通じているんだと思った。 

【沖縄料理を食べる会】

2011年11月27日

 この日を何よりも待ち望んでいた。
母に沖縄料理を食べさせたいと思ってから数年がたった。
あの風景。あの音楽。あの味が忘れられず『沖縄料理を食べる会』を計画した。

 この日の為に横浜の鶴見区の沖縄料理店にも出かけてみたが。
四街道にほど近い、検見川近辺の『島酒すまゆくい』に決めた。そこは公園近くのショッピングセンターの一角で色々な店が長屋風に並び、その中央にあった。
 入り口にいくつかの壺が置いてあり、どこか沖縄風の趣があった。
店内に入ると右手手前が座敷で3つのちゃぶ台があった。壁にはお酒のラベルが、大なり小なりと貼られていた。
左手側には、液晶TVに沖縄のDVDが流されていて、椅子と机の2テーブルが備えつけてあった。そして
床には貝殻の入ったオブジェがはめこまれていた。壁に目をむけると、小さな額縁に懐かしい沖縄の海が写っていた。

 会は塩さんの司会で始まった。私がどんな思いでこの会を開いたのか。

『私が30代はじめ頃に具合が悪く、それ以来、旅行もせず10年ぐらいほそぼそと絵を描いていました。そんな時、信田さんからスケッチ旅行でも行ってきたらと、後押ししてくれて『沖縄』に行ってこようと計画し塩沢さんやリクリエのメンバーに付き添って行って来ることができました。

 本当なら母や妹も同行させたかったのですが、呼吸器をもっての遠出、何もかもが不安ばかりで、スケッチ旅行を兼ねてだったので私だけ行かせてもらいました。

 はじめての沖縄は、まさにTVの映像からみる風景でしたが、実際目の前にみる海・空・風・を体感し見るものすべてが感動でした。私は、この海を見ながら『お母さん出させてくれてありがとう』と心から感動しました。現地の旅行会社の仲本さんも驚くほどの晴天にめぐまれ、『美しい海だ』と言っておりました。そして、沖縄料理もどれをとってもおいしくて『母にも食べさせたいな~』と思っておりました。

 母だけでなくこの会場にいるお一人お一人が私にとって大切な方ばかりです。
夜遅くまで手伝って下さる人、絵の額を用意してくれる人、落ちこんだとき励ましてくれる人、そんな方々のおかげで沖縄の絵を仕上げてきました。

 かけがえのないボランティアさんを私は心の家族だと思っています。この絵の『楽園』のようにみなさんとこれからも歩んでいけたらと思っています。

 雨の日も風の日もあるけど皆と共に一緒ならなんとかなる。
沖縄の方言に『なんくるないさー』とありますが『なんとかなる』と思っています。みなさんと楽しく生きていきたいと思います。云々

 そんな思いがつまった会にしたく、この日のために塩さんやウィズの皆さんに何度も下見に行って下さった。そのかいもありマスターの計らいで、予算以上の店の食材を気前良く提供して下さった。メニューとしても会場設定も大満足でした。

 海ぶどうサラダ、ゴーヤのかき揚げ、ゴーヤチャンプル、ミミガーの酢の物。フーチャンプルと私の好きなソーキ煮。そしてソーキそば。デザートには、さとうきびアイス、マンゴーアイス、黒みつがかかったアイスコーヒーゼリーを食べながら中盤に差し掛かったころ。

 この会を盛大に盛り上げてくれたのは、ここの常連客である珍念さんの三線の演奏だった。演奏者は26歳のさわやかな青年であった。沖縄出身かと思いきや習志野?え~。
独特なこぶし。
沖縄の民謡から今流行の曲まで演奏してくれた。
私は耳で感じて、舌で味わい、目でその情景を思い描いて欲しくて、私はこの日のためにF30号の慶良間諸島の海を描いた。

 珍念さんの透き通る歌声はその絵の情景そのものだった。
珍念さんは私の絵を見て大変感動してくださり、私の思いが伝わったような気がした。

 母は瞼を閉じ『いい音楽だったね。料理もいい味で満足したよ。』と大変喜んでくれた。

 最後に珍念さんと森山良子の『涙そうそう』とBIGINの『島人の宝』をみんなで合唱した。

 店内は熱気に包まれ、会の記念に撮影をした。
『ハイ、チ~ズ』

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 みんなへの感謝の気持ちはこれからも続く。

ありがとうございました。(^o^)/~~

テーマ : こんなお店行きました
ジャンル : グルメ

沖縄料理の下見


 10月24日午後3時ごろから沖縄の店を下見に行くことになった。

 塩さんと千代ちゃん、和ちゃん、なみちゃんの4人に介助してもらった。
 新しいボランティアさんと外出する際、外出指導というのがあって、新しいボランティアさんにもっと自分の介助をわかってもらうために私は個人的にビデオ作成することにした。

 『ベッドから車イスへの移動』『リフトを使うやり方』『車イスに呼吸器を固定させる』『リフトカーの乗り方』等々。もし『呼吸器が故障した時の対処方法』や『アンビューのやり方』などもビデオにおさめた。

 出演者はいつも私の介助をしてくれるベテランボランティアさんばかりで、幾つもの工程を経てやっと私の外出や外泊が出来ることを改めて工程の多さに驚いていた。

 なにげなく準備をしてくれているみんなに心から感謝したい思いだった。そして1人2人と共に外出してもらいたいし安心して行ってこれるようにこのビデオを活用したいと思った。

 店に着いた頃は6時をまわっていた。検見川方面に車を走らせ着いたところがショッピングセンター内でそば屋や整体等が並ぶ店の中に沖縄の店があった。

 店内はこじんまりしていてなんとか車イスだけは通った。
ドア右手に座敷があり、茶机が3つ並べられ通路をはさんで左側に5センチの段がありテーブルが2つ奥にカウンター席が並べられてる泡盛があった。沖縄の映像がTVから見られ沖縄民謡が流れていて雰囲気は申し分なかった。

 途中りっちゃんとも合流し、私達は空きっ腹にまかせ次から次へとメニューを頼んだ。
沖縄の思い出を話しながら楽しい一時を過ごした。

 9時をまわったころ、千葉みなとの東横インの障害者スペースに泊まった。
とても格安で、広く作られているので使いやすいホテルだった。

私は昼の風呂に間に合うように病棟に急いで帰った。

みんなありがとう
本番が楽しみで~す。
(^o^)/~~
プロフィール

misako.k

Author:misako.k
進行性筋ジストロフィーのため、入院生活を続けながら、約20年、絵に取り組み、定期的に個展も開催。手を上げるのも不自由、絵筆を持つのも体力がいるが、ボランティアに助けられ、1メートル以上の長い棒の先に筆をとりつけ150号以上の大作も仕上げてきた。現在は呼吸や弱視も弱いため中作品以下が多いが、ブログやホームページを通して交流を広げたいと意欲を燃やしている。妹(越川清美)はCG作品や手芸が得意。筋ジストロフィーで一緒に病院で暮らし、毎年障害者絵画展に出品している。

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